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そこはかとなき防備録。

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人は人、自分は自分ってどういうことですか?

自己啓発のサイトではよく口にされる、こんな言葉がある。

人は人。自分は自分ですよ。

この言葉を保護者から聞かされて育ってきた方もいるはずだ。

私はあなた達にお聞きしたい。

人は人、自分は自分ってどういうことですか?

あなたは、おそらく答えられないのでは?つまり、感覚的または本能的にこの言葉を理解しているのでは?

気分を害したら申し訳ない。まあ、こんな言葉の具体的な意味を問う方すなわち私がおかしいのかもしれない。(笑)

このことに関連した話をすると、私は、次のようなことを口にしている人を、

具体的なことを実行できない感覚主義者

と呼ぶ事にしている。

 

しっかりやります!

 

あなたは     しっかりやった    のか?また、しっかりやるとは、具体的に何をしたらそうなれるのだ?

具体的にどうするのかをはっきりと自分で認識できるようになれば、その人の実力も上がるだろうのになぁ。

 

この二つの話から言えることは、抽象的で実体のない言葉は、現実世界ではあまり機能しない、ということだ。

 

ただ、譲歩するとすれば、今私が批判している、抽象的でボンヤリとして曖昧な捉え方にも、それなりの利点はある。2つほど挙げてみる。

その1。大雑把に、アバウトに捉えられる。なんとなーく行動できるから、あまり深く考え込まない。

その2。例えば、スポーツの世界などで、頑張れ!  などといった声援は、実体はないのだけれども何か奮い立つ。そういう謎のパワーを、ボンヤリした言葉は秘めている。

詳しく言うと、

こうこうこうしろ!あれをあーしろ!

と具体的に言われるのと、

頑張れ!応援しているよ

とボンヤリと言われたのでは、

おそらく後者の方がモチベーションは上がるはずだ。まあ、もしかすると個人差があるのかもしれないが。

とにかく、抽象的な言葉によって、何となく獅子奮迅的になれるのである。

 

以上のことから、具体的な視点は勿論だが抽象的な視点も役に立つ。私は下のように思う。

具体と抽象の両方を状況に応じて使い分けるのが、楽しい人生のコツだ。

 

追記。ある予備校講師に、あ、ちなみに科目は現代文。   論理    という言葉をやたら使う人がいる。この言葉がやはり抽象的なのはお察しの通りだが、(笑)このボンヤリした語を何も考えずに金科玉条的に頭に入れている受験生は、果たして根本的・抜本的・具体的に物事を理解出来ているのだろうか?

まあ、この、   論理    という語にしがみついてその教科をできた気になりたいのなら、どうぞどうぞそのまま何も考えずにボンヤリしたものをボンヤリしたまま頭に入れてください、という感じだが。(笑)